一法句 「本当の人間」
世間では、闇バイトによる強盗事件が続いてます。指図をする組織の方も問題ですが、闇サイトなどを見ようとする人たちの問題も、よくよく考えて対策をしていかないと、こ の問題は形を変えながらずっと起きていくように思います。
「善悪の判断もつかないのか」と憤る方もいらっしゃるかと思いますが、改めて考えてると、私達は善悪の判断をどのようにしたら身に付けることができるのでしょうか。
私が高校生の時には、社会の中に「倫理」という科目があり、善悪や社会的道義を学ぶ授業だったと記憶しています。ですので、学校で勉強するものなのでしょうか?また、昔の人は「悪いことしたら、すぐに近くのおじさんやおばさんから叩かれていた」などという話を良く聞きます。そのように、犬や猫をしつけるように「悪いことをしたら痛い目にあう」と覚えるものなのでしょうか?
私は、それらのやり方では、善悪の判断を付けることは出来ないのではないかと思います。今の学校教育では、授業で習ったことは単なる情報・知識としてしか受け取れられません。「学校で習ったことは役に立たない」「学校で習ったことはもう忘れた」と良く聞きます。善悪のことを習う授業があったとしても、それは単なる知識であり自分の大事な基準となることは期待出来ません。
また、叩かれたことで考えることは、「なぜ叩かれたのか」ではなく「叩かれないようにするためにはどうしたら良いか」ということではないでしょうか?つまり、ばれなければ痛い目にあわないと考える人が多いような気がします。いまだに、道路の中央分離帯のゴミ捨て禁止の看板が無くならないのは、信号で停止した時に車の影になって歩行者などから見えないと思って、ポイ捨てをする人がいるからでしょう。またネットでの誹謗中傷も匿名性が高いと思って、自分の周りの人にしないようなことを平気でやってしまうのも、同じことかと思います。自分とばれなければ何をやってもいいのでは、と心のどこかで思っていて、善悪の判断の基準が培われているとは思えません。
昔、狼に育てられた少女達がいました。記録も残っている本当の話なのでご存知の方も多いかと思います。結果だけを言うと最後まで人間らしい行動や判断は出来なかったそうです。そのことから考えますと、私達ヒトという動物は、成長すれば当たり前に善悪の判断や社会的な行動が取れるようになるという事はないのです。色々なことを自分で学び身に付けていかなければ、「人間」にはなれないという事です。
お釈迦様がお覚りを開かれた後、考え方の違いで別れてしまった修行仲間に会いに行かれました。五人の仲間と再会し、自分の見いだした覚りの事を話し意見を交わしていかれました。とうとうその五人がお釈迦様の覚りを納得した時、「ここに六人のアラハンが生 まれた」とおっしゃったそうです。このアラハンというのは当時の言葉で「本当の人間」という意味だそうです。覚りを開いたら仏になるというのですが、お釈迦様の中で、覚りを開いたというのは「本当の人間」になる方法が分かったということだったのかと思います。
そう考えますと、仏教を知るということを通して、自分が人間となっていく事ができるのではないかと思います。仏教の教えを聞いて理解をし、失敗をしながらでも実践し続ける事で、人間として正しい考え方や行動が出来るようになっていくと思います。やって良い事悪い事も、その学びの中でその基準を身に付け善悪の判断が出来るようになります。お寺にお参りに来てお話しを聞くというのは、ご先祖様の為に聞くのではなく自分の為に聞くのです。聞いた教えの中で一つでも皆様のお役に立てば何よりです。どうぞお誘い合わせのうえお参りにお越しくださいませ。
正覚寺寺報 286号 掲載