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一法句 不治の病一法句 

大リーガー大谷選手のお金をギャンブルに使い込んでいた水谷容疑者の事件で、「ギャンブル依存症」ということがクローズアップされました。色々ある依存症の一つです。昔は「アルコール中毒」と呼ばれたアルコール依存症、「薬物中毒」といわれた薬物依存症などが有名なところです。ご存知のこととだと思いますが、依存症というのはそれがないと生きていけないと依存する病的な状態になってしまうことです。自分の心も身体も理性も壊し、家族や友人を始め人間関係も深刻な問題を引き起こし、社会的問題や犯罪を犯してしまうこともあることが、今回のこの事件でよく分かりました。
色々と調べていますと、「依存」という言葉からイメージする「これがないと生きていけない」というような弱気な感じではなく、「それをするためには何でもしてやる」と執着していると受け止めたほうが良いように思いました。言わば、人間としての優先して考える順番がおかしくなり、依存する物や事を第一に考え、理性も知性もないがしろにしてしまう病気なのです。
治療も難しく、中には一生治らない人もいるそうです。特にアルコール依存症や薬物依存症は、いったん落ち着いても、何かの拍子に再発することがあるそうです。現在も薬物依存症と闘って いる田代まさしさんは、あるネットの番組で「もう大丈夫ですよね?」と、薬物に手を出さないか問いかけられた時、「はっきり約束できないんですよ」と答えられ、「依存症っていうのはそういうものだから。やめ続けるもので、いつ再発するかはわからないっていう。そこらへんはにごしたいなって」と続けられたそうです。
そう考えると恐ろしい病気だなと思います。しかし、依存症のことを調べていて、似たような
話があるなと思いました。何かに執着して誤った行動をしたり、物事をねじ曲げてみてしまったりすること、これを仏教では煩悩の「愚痴」といいます。病気の話と愚痴を混ぜて考えるのは良くないかもしれませんが、私はこの話が通じるところがあるように感じるのです。

親鸞聖人は自分のことを「愚禿親鸞(ぐとく しんらん)」と名乗られました。また「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」ともいわれました。親鸞聖人は、自分の煩悩に振り回されながら生きるしかないことをよくよくご存知でした。
親鸞聖人の人生は、正にこの自分の煩悩との闘いだったと思います。比叡山での修行を通して、自分の力だけで自分の煩悩を乗り越えることが出来ないことに絶望した親鸞聖人は、法然聖人との出遇いによって阿弥陀仏の他力のお救いの事を知らされます。
比叡山では、いかにして阿弥陀仏に近づくかということを修行していましたが、法然聖人から、そうではなく阿弥陀仏の方が私の方に来てくださるのですよ、と教えられました。阿弥陀仏が私 のところに来てくださるというのは、煩悩に振り回されながら生きるしかない私に寄り添い、気づきをあたえ正しい道を指し示し、私が道を間違えないで進むよう支えるためなのです。
煩悩は一部の人にあるのではありません。私達全ての人間が持っているものです。阿弥陀仏のお話しを聞いて煩悩の中を生きている私に気がつき、少しずつでも間違いを少なく生きていこうとすることは、他人事ではありません。正に自分の事と受け止めていきたいと思います。
どうぞ、皆様もご法話を聞きに来ていただき、阿弥陀仏のおさとしに耳を傾けてくださいませ。

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