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一法句 「知る」こと 

皆さんもご存知のことではありますが、先日将棋の藤井聡太さんが八冠を達成されました。その後に行われたインタビューで、自身の将棋の実力を、富士山の高さでどこまで登ったのかに例えて答えてもらおうとの質問に対し、「頂上が見えるということはまったくない」と答えておられました。向かう所敵なしの藤井八冠ですから、はたから見れば実力は頂上なのではないかと思うのですが、本人にとっては違うようです。スポーツの超一流選手でも同じようなことを言われる方がいらっしゃいます。そのような方々の見えている世界というのはどんなものなのでしょう。それを知るには、自分も同じようにそのことに向き合ってやっていき、同じところに立ってみないと分からないのかもしれません。
「百聞は一見にしかず」という言葉があります。実際にそこに行ってしか感じられない事、わからないことがあることを言います。いろいろ聞いてみても自分の持っている知識や情報などでは及ばないことがある事を戒める言葉だと思います。私たちは、時々そのことを忘れて分かった気になってしまうことがあり、「あぁあぁ、そのことなら知ってる」と思い違いをしたままになることがあります。実際に行ったり見たりできるものだとまだ良いのですが、そうでないもののことを知るというのは、考えてみるとなかなか難しいことだと思います。
ここでいう「知る」というのは、情報として知っている、ということではなく、そのことの持つ意味や価値、いわゆる経験や体験といわれるものを全部含んでいる言葉です。自分の人生の一部としてそのことが意味を持っている、何かの思いがあるといった事を「知った」というのです。

宗教では、これはとても大事な事だと思います。ご法話などでそれまで聞いていたことが、ある日あるご縁で、「あぁ、そういうことだったのか」とその言っている意味に気がつき、大いに頷くことがあって、初めてその宗教の意味や価値が分かるのです。それまで、ふーんと聞き流していた事が、突然輝きを放ったかのように大切に受け止められ、またその事を通して自分の人生
の価値が照らし出されていく、そんな事を「回え心しん」と言います。「回心」心がグルンとひっくり返る、自分の知っていると思っていた世界が根底からひっくり返り、今まで気が付かなかった色々なものの価値や重要性に心が開かれ、そのことによって私たちは初めて、自分の生きるという意味を「知る」ことになるのです。今、いのちの価値がわからなくなっている人が、本当に多い様な気がします。金銭や時間を自分の価値判断としようとしたり、肩書きや有名になることで自分に価値があると思い込もうとしたりしている人が多くいると思います。しかし、自分のいのちの様子に本当に満足しているようには見えません。いつも不安の中を生きているようです。世界が世情的にも精神的にも混迷を深めている現在、自分のいのちの価値・生きている世界の素晴らしさを「知る」ために、お話を聞きにきていただきたいと思います。今回の報恩講法座は、私がお話をさせていただきますので、この話を詳しくお伝えする予定です。どうぞお誘い合わせの上、お越しくださいませ。

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