一法句 宗教と鏡と私
今、宗教に対する関心が高まっております。確かに良いご縁とは言えませんが。結局宗教とは何でしょう。自分と宗教との関係はどんな関係があるのでしょうか。
一言でいうと、宗教はこの私といういのちをいかに生きるのか、ということを教えてくれるものです。そのことについて色々な機会を通して、皆さまにお伝えをしていますが、時々「そんなこと言われなくても、自分のことは自分がちゃんと知ってますので、」と言われる方がいらっしゃいます。
なぜ、私達は自分のことは自分が一番知っていると決めつけてしまうのでしょうか?それは口に出して言わないことや感情などの心の内というものや、人に見せることがない身体的な問題などがあるからではないでしょうか。確かにそれは人が知らないことなのかもしれません。
しかし、逆に自分が知ることが出来ないこともあります。外側の話をすると自分の顔すら鏡がないと分かりません。背中や頭のてっぺんの髪の毛の様子など鏡があっても見ることが難しいものです。内面であっても、全ての感情の起伏についてその理由に思い当たることは出来ないものです。また疲れていたり大変な状況にある時は、自分ではいつもと変わらないと考えていても、傍から見ればおかしな様子であったりもするものです。そのように色々と気がついてみると、「自分のことを自分が知っている」というのは思い込みに近い何かなのだろうと思うのです。
昔、ご法話をされるご講師の先生が「阿弥陀様のお救いは心を映す鏡のようなものですよ」と言われていました。どういうことだろうと思っていました。別に『南無阿弥陀仏』と称えたからといって、自分という人間が分かるわけでもありませんし。
浄土真宗のお経の中に菩薩の行いに関することが出てくるところがあります。菩薩とは仏と成るために修行を続けている方々のことですが、その行いが短い言葉、例えば「和顔愛語(わげんあいご)」「身心柔軟(しんしんにゅうなん)」等という言葉で次々と示されています。ここで示されていることは、仏の考え方や行動の仕方が具体的に表されていることだと気がつきました。仏の教えはなかなか難しいものです。私達が理解をして行動に移すまでに、かなりの時間をかけないと出来ません。しかし、それをお経の中に具体的に示されていることはとてもありがたいことだと思うのです。
その具体的に示された仏教の考え方・行動の仕方と自分を比べることで、自分の考え方行動の仕方が正しいかどうかを知ることが出来ます。おかしなことをしていれば正していくことが出来ます。ですから先生は阿弥陀様の教えは心の鏡といわれたのです。
心の鏡を使い、自分のことを正しく知り、正しい行いをしようと行動していく。こういう自身の変化、成長があってこその宗教だと思います。
まずは、阿弥陀仏の教えを聞きにお寺へお越しくださいませ。お待ちしております。